航海記録


|与那国島から西表島へ 外洋航海 2006年|

今回の舞台は、与那国島~西表島までの海域。
日本の最西端与那国島。
手付かずのジャングルが残る西表島。
距離にして80キロ程。

今までも数名の日本人が、この海をシーカヤックで渡っています。
黒潮の本流から外れているものの、沖縄では渡難(どなん)と呼ばれる程、
荒れる海域と認識されています。
シーカヤックの能力を最大限に発揮することが必要です。
この海を、男女混合チーム9名という団体で渡ろうという試み。

外洋を渡る映像を見たことが無い為、 撮影をかねた伴走船をつけました。
しかし、これは死んだ時しか乗れない船です。
疲れて漕げなくなった人が居た場合、他の誰かがフォローし、牽引してでも漕ぎ渡る事。

僕達は、そうしたことを皆で共有して、挑んだのです。

 


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Great Seaman Project 与那国~西表 2006

2006年9月29日、9名の男女が、与那国島から西表島まで、漕ぎ渡った。

航海者:城後岳弘、滝川次郎、十河学、平島和代、
藤井巌、藤縄知成、三浦務、水野義弘、八幡暁

伴走船:船長 小林洋
動画撮影:須川貴夫、他2名

これは、その記録である。

はじめに

シーカヤックで80kmという距離を女性、一般の方々と漕ぐこと。
これは無謀なことなのか?
外洋を乗り越えて、太古から人は移動してきた。
女、子供も一緒に船で渡った海を想像してみよう。

グレートシーマンプロジェクトでは、先史以来、人が自由に海を往来していたように旅し、
海と対峙し、その関わりを経験することを目的としてきた。

この挑戦は、最適ではないか。
今回の挑戦を計画したのは、8月中旬の事だった。

与那国横断の狙いは3つ。
1 現地人との交流
2 男女プロアマチュア混合チームとして全員完漕
3 カヤックの航行能力の証明、可能性の確認(動画撮影)

この海域を一人艇で漕破したアマチュアを聞いたことはない。
女性では、挑戦した者すら聞いたことがない。
団体で、この海を漕ぎ渡ったものもいない。

シングルで漕ぎきるアマチュア、女性の航海者、団体での完漕。
これは、カヤックの挑戦としても、とても良いものに思えた。

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与那国島~西表島横断とは?

最短距離、与那国島から西表島を結ぶと、約77km程になる。

この海の間には、何があるのか?

与那国島周辺には、海流と潮流がぶつかる場所がある。
航行ルート上にある、東崎の沖合は、一見、変化がない。
西表島まで、水平線があるだけである。
しかし、東崎から東へ18km程、海底に浅瀬が延びている。
通称サンゴ曽根。
深度600m程から、60mまで上昇する海の底。
海底山脈に当たった水は、逃げ場を探して、海面を盛り上げる。
そこに潮流がぶつかり、不規則な三角波が立つことになる。
外洋の三角波だ。

与那国島の港を出発すれば、2時間程でサンゴ曽根に入る。
朝5時に出発すれば、ちょうど7時頃。
日が昇り、朝日に向かって漕ぐことになる時間である。
そこから3時間は、難しい海を越えていかなくてはならない。
ここを上手く越えることができれば、西表まで漕ぎきれるだろう。
その先は50km、変化の少ない外洋が続くだけである。

心が折れることなく漕げれば、必ず皆で到着できる。
海を漂っていること、流れていることを、無闇に不安がらない事。
ゆっくりでも進んでいる、という心持ち。
24時間はかかってもよいという覚悟。
最悪の状況であれば、気力を振り絞って、困難から脱出する。

今回の航行は、朝5時出発。
天候が良ければ、15時間、夜の20時に到着予定。
最長時間、24時間をリミットとした。

この時間は航海者と伴走船の安全確保の為である。
仮に休憩を上手く出来る状況でなかったとする。
これは自分の経験から考えたことで、一般的にどうかはわからないが、
24時間以上の航行は体力的、精神的にも、集中力を保つことが難しい。
24時間経過しても尚、海を漂っていれば、伴走船で撤退する。

ただし緊急事態以外では、伴走船からの補給は一切なし。
漕ぐスピードが落ちての個人の引き上げや回収はなし。
牽引してでも、皆でゴールを目指す。
冗談混じりに、伴走船は、死んだ時にしか乗れませんよ、と伝えた。
「船は霊柩車だと思ってください」

航海者には、それぞれ事前のトレーニングをお願いした。
出来れば10時間以上のパドリングをしておいてください、と。
体で長時間のパドリングを覚えること。
自分への自信を掴む為である。
行動食も、自分に合うものをみつけてもらうことにしていた。
1日限りの横断であれば、細かいことを気にする必要はない。
食べたいもの、飲みたいものを、積んでいきましょう。

皆、それぞれに不安と期待をもって決戦の日を待った。
各地で、トレーニングをしている話も聞いた。
思ったより漕げることがわかったという話も聞いた。
長い距離を漕ぎきるには何が必要なのか?
各自で考え、体調管理していたようだ。

そして9月28日、与那国島へ集合することになる。

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9月28日 出発前日

石垣の新川港。
遠征に使用するウォーターフィールドのカヤック5艇を、伴走船に積み込む。
雲りがちな空に、時折、雨が混じっている。
予報では、風、北東6メートル。波は2メートル。
良い条件ではないなぁ・・・ このまま雲が多ければ夜間航行は諦めた方がよいかな。
星が見えない。カヤックを積み込みながら考えていた。

メンバーの半分は、既に与那国島入りしている。
半分は、船に乗って与那国島へ5時間の航海だ。
その間、自分が漕ぐ海を目にすることが出来る。
明日の参考になるだろう。

石垣を出て、石西礁湖を抜けていく。
海は、まだ穏やかである。
晴れれば、八重山の島々を見渡せるが、鉛色の空で見通しが悪い。
船は風波を突き破るように走る。
雲が多すぎる、このままだと夜の船酔いが怖い。
何か手を考えないと。

西表島を抜ければ、与那国島まで、海だけの世界になった。
この時、台風15号がフィリピンを通過していた。
その影響が、南から入ってくるかもしれない。
南からのうねりが、北風に潰される海況を想定して海を眺める。
海面には白波がたっているものの、台風の影響はみられない。
普段の外洋のうねり、波頭が風に潰されているだけである。
漕ぐには疲れるが、危ないものではない。
八重山漁船の中でも最大級の船が、追波サーフィンしながら進んでいった。

西表と与那国の中間点では、両方の島がはっきり見えていた。
天候にもよるが、40kmも漕げば見えるという目安になる。
夜に突入する前までに、一度、視野に捉えたいものだ。
海の色は、深い青色をいている。
外洋でも、黒潮の影響を受ける海は、いつもこの色をしていた。

与那国島の手前まで来ると、予想どおり波が不規則に激しくなる。
サンゴ曽根だ。
船に座っていても、椅子からずり落ちそうになる。
立てば、必ず手すりが必要である。
船はカヤックと違って、体と一体となってない。
揺れを大きく感じてしまう。
木の葉のように、優雅に波を越える事が出来ない。
しかし、この波であれば、人力で越えられると思った。
今までの経験の中で、普通に外洋で見てきた海。
派手に白波が見え隠れするが、漕げば難しいものではない。
強い力で乗り越えようとせず、前漕ぎを確実に行えば良い。
下手にスピードをあげても、どのみち波で減速してしまう。
波が上り坂にもなり、下り坂にもなりる。
無理をすれば体に負担がくるものだ。
ここでは、体力を使わないで漕ぎぬくこと。
あとはびびらない気持ちと体の問題になる。

与那国島の影に入ると、揺れが無くなった。
そして、祖納港が見えてきた。

到着と同時に、カヤックや荷物を港に降ろしていく。
先に与那国入りしていたメンバーも合流した。
始めて会う面々もあり、自己紹介をしたりと和気あいあい。
緊張は見られなかった。
集まったメンバーは20代から50代と幅広い。
世代を越えて、力をあわせ横断することを素晴らしく思う。

今回、遠征で使う船のチーム編成を発表した。
シングル2艇、ダブル2艇、トリプル1艇。
そして各自が、明日、乗り込む船のセッティングを始める。
早朝にする作業を、出来るだけ少なくする為である。
装備の確認、シートの位置、食料の置き場所など等。
皆、やることはわかっている。
そして、これからの健闘を誓った。

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チームミーティング

夕方、ミーティング前の天気予報は、良いものではなかった。
風は、今日より少し強く、北東7m。
波は、2.5メートルとなっている。
左斜めからの風と、波が海上ではもう少し強くなる筈だ。
出発するには、微妙な天気予報である。

一日出発をずらしても、予報はほとんど変わらないものだった。
もし、出発すれば長期戦、夜間航行を覚悟しないといけない。
救いは、夜間の天候が晴れになったこと。
予報が当たれば、星空が見える。
これで自分の向かうべき方向を夜間でも確認出来る。
しかし、悩む。

まず、夜明けと共にぶつかる波の壁。
ここを抜けられるか?

夜間航行に入った場合、波間に消える先頭カヤックの明かりが見えないだろうということ。
見えないまま漕ぎ続け、集中力を欠いたとき、集団からはぐれるとも限らない。
これをどうするか?

月の光が無い中での外洋のうねり。
船酔いする可能性が強い。
これをどう回避するか?

ともかく出発することは決定としよう。
出発するにしても、延期にしても、皆の漕ぎを見ておきたい。
調子や強さ、波を越えるパドリングが出来るのか?
再アタックになった場合の試金石になる。
序盤戦の三角波地帯を、漕ぎ抜けられないと判断した場合、即、撤退し明後日に備える。
越えた場合、西表島を目指す。
航行時間予定は20時間。

夜間航行のナビゲーションは、伴走船が行う。
船のライトをつけ、皆はそれを見ながら漕ぐこと。
これで船酔いも防げる。
純粋なカヤック遠征ではなくなるが、この海況では最良の手だ。
天候の回復を待てるのであれば、停滞する。
が、今回それは出来ない。
伴走船を使ったとしても、これはこれで素晴らしい挑戦になる。
大きな波と強い風の中を、団体が渡っていくのだ。
皆には漕げば必ず着くことを強調しよう。

そしてミーティング。
天気の概況を伝え、航行の見通し、上記の作戦を伝える。
皆の表情が硬い。
大丈夫だろうか?厳しいのではないか?
不安がメンバーに漂う。
「まぁ、大丈夫ですよ、漕げば進む状況ですから」
という僕の言葉が、むしろ皆の不安を誘っているようだ。
この若造の言うことを信用して大丈夫か・・・かな(^^;

個人で航海する時、不安があったときは必ず停滞する。
行けると思った時にしか出発しない。
具体的な基準があるわけでなく、そういうことにしている。
この判断は、波が何m以下、風が何mという話ではない。
今回はいけると思っていた。
撤退するにしても危険はない。
一度、戻ればよいのだから、不安は全くなかった。
ともかく、状況をみながら出発はします、と話す。
エスケープする段取りも決めているから、撤退の判断は早い。
迷いもなく安全に航行出来るだろう。

先頭でのナビゲーションと艇のチェックは僕の仕事。
最後尾は、今回の航海者の中で一番カヤック経験豊富な
WF(ウォーターフィールド)水野社長にお願いした。
この2艇で、他の艇をサンドウィッチする方法である。

メンバーから、提案があった。
バディシステムを使おう、というもの。
昼夜問わず、組になったカヤック同士が互いを励まし、監視し、航行する。
ダイビングなどでは常に行われるもので、チームからはぐれることを防ぐ方法である。
僕はカヤックで経験したことがないが、良いと思った。
臨機応変に動くのは当然であるが、指揮が上手く届かない状況に陥った場合役に立つ。

後になって思うことであるが、僕は、この意識が甘かった。
昼夜の事故を防ぎ、チームとして完漕する為のこの作戦は、かなり有効なものだと思う。
バディを離れれば、死ぬのと一緒です、という意識を皆に強く伝えなければいけなかった。
漕ぎ進めるうちに、バディを変更することになったとしても、
新しいバディとは常に繋がっていなければいけないことの徹底を、
このときは何ひとつしなかった。

この時点では、一応、そういう取り決めをしておいて、状況に応じて変えていこう、
と曖昧な部分を残したままでいたのである。
その為、出発してから、このバディシステムが機能しなかった。
バディが崩れても、まぁいいだろうと思いながら、漕ぎ続けしまった。

事前に考えていたのは、日中、全体を僕が見て対応する。
夜間、遅れた者は、繋いで漕ぐのが一番良いと思っていた。
団体での外洋航海の方法は、今後の課題である。

夜は皆で夕食を食べ、早朝出発に備え、早めに就寝した。

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出発当日 9月29日

朝4時、皆が集まる。
夕方のミーティングの時とは、一転して雰囲気がよい。
迷いの無い雰囲気が伝わってくる。
それぞれの気合は、会話がなくともわかるものだ。

軽くストレッチをするもの。
装備を確認するもの。
飯をたらふく食うもの。
やるべきことを、それぞれがしている。
宿から浜に移動すれば、パッキングが始まる。
自分の船に、荷物を入れ、食料を詰め込み、地図を張る。
パドルを組み立てる。
PFDとスプレースカートをつけ、防水ライトを身につける。
僕は、GPS、衛星電話、携帯電話、無線、ライトを体につけた。
装備類の総チェックをする。

カヤックのハッチにガムテープで目張りをする。
白波がカヤックのデッキをあらう海況だ。
とくにバウは水を被ることが多い為、水の浸入を防ぐのである。
これは、台湾から与那国に渡るときにも役にたった。

全ての準備が終り、皆で出発前の写真撮影をする。
出発の意気込みを声にするもの、黙って顔で語るもの。

よ~し行くぞ。

5時半出発。
あと1時間もすれば、空は明るくなる。
そして、7時頃には東崎に突入す筈だ。
ヘッドライトをつけて漕げば、手元が見えない。
消して漕ぐように伝える。
今夜の夜間航行の練習にもなる。
港を出れば、僕らは、既に小さなうねりの中にいた。
それぞれの存在を声で確認する。
次第にうっすらと空が開き、皆を確認できるようになっていった。

東崎先端付近は、潮流が一番激しくぶつかっている。
少し北側を通るように進路をとる。
小潮という潮回りでも激しく三角波が立つはずだ。

「ヤッホーォ」

大波を越えるたびに、声がどこからか聞こえてくる。
海を前にしてしまえば、こっちのものだ、と言っているようだ。
皆の漕いでいる調子も安定している。
頼もしい。

曽根に入る頃には、皆、カヤックと体がフィットしていた。
三角波をもろともしない。
巡航速度は時速6kmほど。
追い潮の助けはあるにせよ、良い調子だ。
隣のカヤックが波間に消える。
次のうねりで波の坂を一気に駆け上がると
バウの先が空中に飛び出し、また波間に消える。
カヤックから見ると、伴走船すら完全に見えなくなる。
不規則に砕ける白波を被る。
なのに、皆、楽しげだ。
体が動いている。
ゆっくりでもいいから、力を使いすぎないように行こう。

午前11時には、難所を越えていた。
通常のうねりと風の外洋になっていた。
波頭が崩れているが、沈(転覆)するような波はない。
あとは、ひたすら漕ぐだけだ。
向かい風と波の影響で、全体の航行速度が時速4kmになっていた。
この海況で、このスピードはおかしなことではない。

そしてこの時、夜間突入は覚悟した。
船酔いしている者もいたが、体力、気力ともに残っているようだ。
酔いは、病気ではない。
きついが、基礎体力と気持ちが強ければ漕ぎきれる。

午後に入り、各艇にスピードのばらつきが出てくる。
全体的にペースは落ちたが、それでもしっかり前には進んでいた。
深刻な状況ではない。
残りの距離、時速3km航行という想定で考えれば到着は夜中の12時を過ぎる計算だ。

午後2時、中間地点を過ぎているが、まだ西表島は見えてこない。
ただこれを気にすることはない。
島が移動することはないのだから。
幻影をみているのか、水平線に見える微妙な影を追ってしまう。

夕方頃、間違いない、本当の島影を捉えた。
残りの距離は、25kmほどだったか。
もう射程距離に入った。
夜間航行に入ったら、時期に携帯電話の電波も入るようになる。
安全確保を考えれば、携帯電話圏内に入ることは大きい。

暗くなる前に、一度、皆で集まり大休憩を取る。
食べられるものは、腹に詰め込み、飲み下す。
ただ、これは船酔いが始まったものにはきつい。
食べられない、飲めないのは勿論、止まることがきついのである。
吐き気がこみ上げて、胃液が出る。
そして体力を使ってしまう。
夜間での停滞休憩は、出来るだけ避けよう。
手元が見えない中での作業は、船酔いの一番の原因だ。
集中力がなくなり、物を落としたり、無くしたりするエラーが発生することも多くなる。

日中は、皆、安定して漕いでいた。
今のところ、牽引する必要があるカヤックはない。
少し距離が離れても、目視できる距離に最後尾をおき航行した。
声をかけても、笑顔が帰ってくる。
しかし、これからが、皆の未経験ゾーンになる。
ストレスが溜まったときに、いかに冷静に判断をし、チームワークを保てるか。
体力的には、全く心配していない。
気持ちの問題が一番難しいだろう。

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ナイトパドリング

陽が暮れ始めた。
先頭を伴走船に走ってもらい、明るい照明をつけてもらう。
メンバーは、この光をみて漕ぐことになる。
ナビゲーションも船に任せた。
僕は、最後尾に下がる。
ペースが落ちてきた人を拾う役割である。
夜間は、伴走船と僕のカヤックとでサンドウィッチにする。

半月が、僕らの右手を照らしている。
しばらくは、この光で皆が見えるはずだ。
左手は暗い闇。
だから僕は最後尾、左側を漕ぐことにする。
右手にうっすらと皆が見える。
先頭を漕ぐシングル艇の背中には赤いライト(自転車用だとか)がついている。
これは、非常に見えやすい目印になった。

夜間航行の方法について、改善、反省すべきことが多かった。
単独行の場合、ほとんどライトは使用しない。
勿論、いつでも使えるよう、体につけているのだが、
ライトを照らせば周囲が見えなくなって、漕ぎづらいのである。

今回は、チームでの航行であるため、それぞれライトを用意してもらった。
しかし、どういう光が良いのか?という検討、アドバイスを全くしてなかったのである。
ライトをどういうタイミングでつけてください、ということも話をしていなかった。
ずっとライトを点燈させておくことが、漕ぐことの邪魔になるのではないか?
と思っていたからである。
先導艇と最後尾の光が見えれば、それで良いだろう、と想定していた。
この間から漏れてしまうカヤックは牽引する。

月明かりが後方に下がり、
前方の光は先頭の船の光と先頭をいくシングル艇の赤いライトになった。
途中のカヤッカーの様子、場所が見えない。
何かあった場合の対応が遅れてしまう。
それだけでなく、最後尾が見落として、通り過ぎてしまったら、見失うことになる。

途中、シングル艇には、後ろから見える用のライトをつけるようお願いした。
タンデム艇は、ヘッドライトをつけて漕いでいた。
今回は伴走船が先頭で大きな明かりをつけている為、問題なく漕げたのだろう。
伴走船の光がなければ、自分の進むべき方向が、自分の光によって消え、
波への対応も遅れ、肉体的にも精神的にも疲れることになる。

夜間に突入して、各艇を後ろから確認しつつ、時速3kmで航行を続けた。

一度、前方のカヤックが後ろに下がってきたことがあった。
こちらは最後尾から、近寄っていく。
漕いでいる様子が無い、休んでいるにしては長く、先頭からどんどん離れていく。

「大丈夫ですか?」
「パドルを流してしまった」
「無理です」

この暗い海では、探すのが難しい。
短いやりとり。
申し訳ないが、パドルは断念してもらった。
探しているうちに、皆から遠ざかることの方が、問題である。
他の人は、後ろでパドルを探している事を知らない。
波の中で、パドルを持たない状態はバランスをとるのも難しい。
予備パドルは、用意してあるので、すぐ漕ぎ出してもらう。

夜の10時を過ぎて、伴走船とカヤックの距離が離れ始める。
船が最低速で走るスピードにさえ、ついていけなくなってきた。
無線で連絡。

「もう少しペースを落としてもらえますか?船とカヤックが離れています」
「なんですか?どうぞ」
「もう少しペースを落としてもらえますか?船とカヤックが離れています」
「これ以上、ペースを落とせません、止まるしかないです、どうぞ」
「では、停止してください、どうぞ」
「いつまで停止していますか?どうぞ」
「僕らが、全員まとまるまでです、どうぞ」
「了解です、どうぞ」

伴走線からの、無線が聞き取りづらい。
そして、向こうも聞き取りづらいのだろう。
船は明かりを煌々と照らしている為、カヤッカー達の姿は、全く見えないのだ。
そして、夜間の伴走自体が始めてのことで、向こうも要領がわからない。
この無線連絡の間にも、僕の乗る艇は他の艇から離されてしまう。

伴走船の動かし方、それ自体がひとつの挑戦になってしまった。
事前に、どういうことが想定されるか?ということを、
こちらから伴走船に言えなかった事も、大きな問題点であった。
船が最低速で、何キロなのか?ということさえ知らなかった。

午前0時頃、皆の疲れと眠気が溜まってくる頃、前方のシングル艇の明かりが消えた。
伴走船と最後尾、僕の乗ったカヤックの距離が大分離れた頃だった。
波間に消えただけかと思ったが、いつまでたっても見えない。無線で停船連絡をする。

「後ろが大分離れていますが、皆集まるまで、止まってください、どうぞ」
「なんですか?どうぞ」
「距離が大分離れました。しばらく停船してください」
「了解」

僕が乗ったトリプル艇が最後に合流し、全員が集まる。
前方を漕ぐシングル艇の光は、原因がわからないが、やはり消えてしまっていた。

水野社長の提案で、ここから各艇をトーイングすることにする。
メンバーが離れることを危惧した結果である。
生きたシングル艇にシングル艇をつなげ、生きたタンデム艇に、タンデム艇とトリプル艇が繋がる
。遅れがちなカヤックをサポートする意味と、全艇が繋がって、近くにいるという安心感を得る為だ。
本来であれば、ガイド艇も結んでしまうことはまずない。
が、ガイドを乗せたカヤックが最後方で皆から見えないほどに遅れてしまった状況。
もしかしたら、何かあったのではないだろうか?と水野社長が心配してのことである。
皆に心配かけたことを申し訳ないと思った。もう少し早めに集合すべきであった。

全員完漕の為に、ここで全員が繋がったことは良かった。
皆、疲れた体であるが、ゴールの為に一緒に頑張れる体制になった。
これから2時間ほど、全員が固まって進むことになる。

暫くすると、僕らと伴走船の光は、ゆっくり離れていく。
やはり伴走船の低速走行に追いつけない。
しかし、西表島の光は、確実に近づいている。
サバ崎灯台の明かりである。
GPSは、時速2、3kmで進んでいることを示していた。
この状況でも風にまけて、逆走することはなかった。

もう到着は間違いないだろう。

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同志

伴走船との距離が再び開いた為、伴走船に停船をお願いする。
この時には、伴走船もかなり疲労困憊していたと思う。
20時間も後ろを気にしながらの、低速走行をすることは経験にない。
伴走にとっても、大きな挑戦になった。
伴走の仕方にも、随分改善が必要だ。

もう一度船の周りに集合した時には西表島の影に入っていた為、
波、風共に穏やかになった。
残り1時間ちょっとで西表島に到着する。
皆、カヤックを筏にして携帯食を食べる。
波が無い、ということからくる安心感。
目の前に黒い島の影がある安心感。

既に21時間近くたっていた。
皆、どんな思いでいるだろうか。
完全に漕げなくなる者も出ていない。
もう数時間後には、陽が登ってくる。

伴走船へ、西表島についてからの段取りを伝えた。
メンバーも、ゴールを前にして生き返った。
まだまだ、いけるぞ、といった風だ。
沿岸を漕ぐことが、なんて快適なことか。
空には、満天の星。
オリオン座が目の前に上っている。
もう夜の海を楽しむだけでよい。

伴走船は、西表島の入り口で終了。
そこから石垣島へと帰ることになる。
睡魔と集中力の闘いだったと思う。
「ありがとう、お疲れ、石垣まで気をつけて」
難しい伴走だった筈だ。
伴走船も今回の遠征の同志である。
感謝の気持ちでいっぱいだった。
そして静まり返った湾の中を漕ぎぬけ、祖納港へ入っていった。

港では、地元のカヤッカー、航海者の家族が待っていた。
時刻は、午前3時30分。
万歳とかガッツポーズとかでなく、皆、呆然としている。
よろけてしまう足をかばいながら、陸に立つ。
海に倒れてしまうものもいる。
お約束のように沈するものもいた。
上陸した港のスロープが、嫌がらせのように滑りやすい。
そろりそろり。
一様に皆の顔が生きている。
22時間も漕ぎ続けたというのに、悲痛な顔はひとつもない。
それを見て、僕は嬉しくなった。
やって良かった。

カヤックや挑戦は人を幸せにするか?
こんな問いがあれば、幸せにすると答えたい。
今回のメンバーも、何かを感じてくれていたら最高だと思った。

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最後に

今回の挑戦では、皆が怪我もなく全員完漕出来た。
結果は100パーセント成功だったと思う。
皆が、完漕の為に協力しあえたことは、最高に良かった。

ただ、個人的には、いくつも改善すべき問題点があった。
チームで挑戦するには、自分の力がまだまだ足りなかったこと。
何が足りなくて、何をすればより安全に航海出来るのか。
こういうことを省察し、今後に繋げていこうと思う。

最後に、今回も一緒に遠征を協力してくれた皆様、
応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。
この場を借りて、お礼申し上げます。

今後もカヤックの安全や可能性を考え、
海の世界を広げる活動につなげていこうと思います。

10月30日  八幡暁

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