航海記録


|インドネシア バリ島~モヨ島 2009年|

舞台は、インドネシア 東トゥンガラ州。
前回の雨季と変って乾季の海を2週間で300km航行します。

1868年、バリ島と東隣のロンボク島の間は、ウォレス線が発見されました。
オーストらシアとアジアの生物の分布境界性の事です。

かつて水面が今より100メートル低かった時代も、
この2つの島は、繋がらなかったのです。

狭い幅でありながら、深い海峡である為、
日本の鳴門のように、外海と内海が交錯し、強い流れを生み出し、
荒れる海であることがわかります。 

この海を 相棒の藤井巌さんと共にバリ島~モヨ島まで横断しました。

 

【活動概要】
遠征遂行者:藤井巌/八幡暁
活動地域 :バリ島~モヨ島(インドネシア)
活動期間 :2009年5月22日 ~ 6月8日
航行方法 :フェザークラフト K-1
■全長 :500cm 幅:63.5cm
■重量 :FRP 24kg
■組み立て式



 


Great Seaman Project バリ島~モヨ島

2009年5月下旬、ぼくは、藤井巌さん(現在ニュージーランド在住)と2人でバリ島からモヨ島まで、距離にして300キロメートルの海を渡るカヤック旅に出ていました。

バリ島

「この村に船をあげましょうか」バリ島のチャンデイダサを出発し、ぼくらは沿岸を北上していました。崖と湾が交互に現れるバリ島東海岸の景色。三日月型に開けた小さな湾の奥には、ココヤシ林とアウトリガーカヌーが見えます。ここに上陸する事を決めました。人々はどんな暮らしをしているのでしょうか。

まず子供達が集まってきます。警戒しているのか、こちらをじっと見つめたままです。ぼくらが笑いかければ、向こうも照れ笑いで応答してくれます。暫くすると大人達も集まってきました。どこから来て、どこへ行くのか、目的などを伝えれると、お互い心がほぐれてくるようです。パドリングで海を渡ってきた事に驚き、これから向うロンボク島への道のりに驚き、村での休息を快く迎え入れてくれました。

「ここに休めば良い。コーヒーは飲みたくないか、飯は食べたか」
その都度、好意に甘えます。バリコピーと呼ばれるコーヒーは、コーヒーの粉に直接お湯を注ぎ、大量の砂糖を混ぜて飲むのですが、暑い気候の下、舌にざらつく粉の苦味と甘さがやみつきになるから不思議です。疲れた体にエネルギーが入った気がしました。飯には、白米と野菜やココナッツ、唐辛子が混じったサンバル、カツオの子供が、塩茹でされたものが出てきました。これが美味い。日本にはない、風味と辛味。口に残る幸せの形と言っていいと思います。

この村はお店などないローカルの漁村です。舗装道路は、海岸まで来ていません。椰子の木の間には、マメやバナナの木が植えてあります。鶏が走り回り、豚が飼われていました。朝方から9時まで漁に出れば、暮らしていくには十分の魚が獲れるようです。昼には、船の修理をしています。その周りを子供達が子供達で遊んでいるのです。裸になって海に飛び込み、貝を拾ったり、漂流してきた発泡スチロールに飛び乗ったりと留まることはしりません。彼らは遊びの天才です。

「山の斜面に美味しい木の実があるよ」

ぼく達に教えてくれるのです。一緒に崖を登ると、彼らが美味しく熟したものを選んで獲ってくれました。味は決して美味しいといえる果実ではないのですが、自分で食い物を獲る、という充実感に溢れていました。

「美味しいよ」

ぼくらがそう答えると、彼らは得意げです。こうした村の子供や大人の暮らしに触れて、ぼくらは何かを感じていました。崖の上から海を見下ろし、海とジャングルに囲まれた村を眺めながら、藤井さんと2人で、日本の子供の話をしていました。大人もだけど、日本の子供は、本当、遊べないよね。ぼくらが求めている社会は、どこを目指しているのだろうかと。
人が生きる幸せの欠片が、ここにもあったような気がします。


バリ島からロンボク海峡へ

「本当にこの船で、ロンボク海峡を渡るのか?エンジンが付いていないのだろ。」

バリ島の海人が、首を横に振りながら僕らを見ています。あきれているのか、信じられないと感心しているのか、わかりませんが奇妙な挑戦、と思っているのでしょう。何故、怖い海を渡るのか、と。確かにこれから向う海は、厳しい海の一つでした。

バリ島とロンボク島の間には、ウォレス線と呼ばれる生物の分布境界線があると言われています。バリ側には、アジアの生物相、西にはオーストラリアの生物 相があるというのです。ジャワ海とインド洋を結ぶこの海峡は深く、さらに流れています。スタートしてすぐ渡らなくてはいけない海の攻略が、この旅の最大の 難所になっていました。

最短距離20キロ程を4時間で漕ぎぬける選択肢が一つ。バリ島の北東部まで移動し、40キロの海を8時間かけて渡る方法が一つ。考える事は、一つ、安全 です。一見、短い距離を選んだ方が良いように思えますが、答えは、そう単純ではありません。何か問題が起きた場合、逃げ道が沢山ある事を優先します。おそ らく大昔の人が海を渡るときも、同じ事を考えていたでしょう。楽をしようと、最短距離を狙えば、どうなるのだろうか。

乾季であるこの時期、荒れる海は南側です。もし、海峡横断中、不測の事態が起きるとすれば、南側に流されることを避けなければいけません。海峡の狭い部分 は、流れが速くなるのは、世界共通です。流れはパワーそのものですから、弱い人力で向き合うには、制限が出てくるものです。海が流れている、と聞いてはい ますが、実際、どれくらいで流れるのかはわかりません。わからない海に対して、あらゆる状況を想定した回避方法を頭で思い描いてみます。このイメージが海 を渡る上で一番大事なところです。
時間はかかるが、40キロの海を腕2本で渡ろう、南海岸方面に流されるまでの余白を事前に作る事でリスクを回避しておく作戦です。これがベストの選択だと確信をもって挑みました。
出発する時間も成否の鍵を握っています。8時間で着くと予想出来るのであれば、朝の9時に発っても、午後の5時、陽の明るいうちに到着出来ることになります。ただこれでは、不測の事態に備えられません。

僕らは朝4時に出る事にしました。スタートして暫くは暗闇の中をパドリングすることになりますが、振り向けば、街の明かりがちらほら見えます。何か起きても、すぐに戻れる状態です。
2時間も漕げば、東の空が白んできます。ロンボク島、最高峰のリンジャニ山(標高3,726m)が、影絵のように浮かびだすでしょう。
新しい島へ一歩踏み出す為の作戦は出来ました。

夜明け前の出発

午前3時に起きた僕らは、トマトをかじり、揚げマメをほおばり4時にはバリ島を出発しました。暗闇に星空。海面には夜光虫が青白く発光しています。シー カヤックが水を突き進む音。パドリングの音だけが聞こえています。島を発って30分、すでにここはワイルドな海です。

雲と星空を見ながらのナビゲーションが続きます。コンパスやGPSは、ほとんど使いません。ライトをつければ、自分の目がくらみます。周囲の大事な情報 を見逃しやすくなってしまうのです。音もなく、黒い影が30m先に動いています。アウトリガーカヌーを操るバリの漁師です。彼らも光は灯しません。帆を立 てて海に出ています。エンジン音が聞こえる事が当たり前の海がある一方、世界の海には、こうした海があるのです。

漕ぎ出して2時間、空が暗青から群青へ、そして水色へと変化してきます。オレンジ色に染まる空を背景に、ロンボク島のリンジャニ山の頂が見えていまし た。インドネシアでは3番目に高いと言われている山の高さは、3,726m。(日本の富士山は3,772m)この海を渡る多くの者は、この山を目印にして 往来していた筈です。今も、昔も、この景色は変っていません。人知を超えた造形、火山という地球のエネルギーが、ほんの一瞬、地上に吹きだした名残。小さ な島に存在している姿を見るだけで、僕は圧倒され、安心感を覚えていました。どこにいても、山の頂が方向を示してくる、と。
シーカヤックの航行は、問題なく進んでいました。潮流によって流されることを危惧していましたが、予想を下回る海の流れです。タンカーと接近することが 1度だけありましたが、事なきを得ました。波は眠ったままです。天候、風向、潮流、最悪の条件が重なった時は、この海は荒れるのだろうな。イメージは沸き ましたが、今回は静かなままの海でした。
ロンボク島が、大きく目の前に迫ってきます。白いビーチには、椰子の木が並んでいました。熱帯の海に恵をももたらす万能の植物。飲み水、燃料、調味料、 おやつ、家畜の餌、椰子が見えるということは集落があることを意味しています。浜辺には、バリ島と同じようなアウトリガーカヌーが並んでいました。人影 は、見えません。直射日光が強い昼間は、出歩かないのでしょうか。

ロンボク島に住むササック族は、どのような人々なのか。どんな暮らしをしているのか。土地の人への礼と敬意を怠ってはいけない。迷惑がかからぬよう、僕らは場所を選んで上陸したのです。


ロンボク島

燦々と照らす太陽の日差し。紫外線と高温で体力を消耗します。ロンボク島のビーチにあがったものの、日陰がありません。僕らは、水分補給をし、クッキーを頬張り、これを昼食としました。

おそらく島人は、何者が海からやってきたのか?と思っているでしょう。村人から興味を示すまでは、静かに休んでいることにしました。

「こっちにおいでよ、日陰もあるし安心だよ」。

目が大きく、小柄ながらも体つきがよく、骨が太く、顔立ちは野性味のある感じの男が話しかけてきました。日本の街で見かける人の姿ではありません。彼の 名前はジャン。生粋のロンボク人であり、漁師。小さな頃から、海に出て魚を獲っていた事が体つきからもわかります。見かけたことのない船に惹かれてやって きたのです。

どこから来て、どこへ向っているのか。ロンボク海峡を渡るのに何時間かかったのか。波は高くなかったか。流されなかったか。転覆した時はどうするのか。疲れないのか。
どれも的を得た質問をしてきます。海を知る者として、どうやって進む船なのか興味があるのです。これは世界共通の反応。日本でもフィリピンでも、ニューギニアでも同じです。
彼らと話していると、仮に現地の言語を習得していなくても、海、という共通 の理解で繋がるように思えてくるのです。

現地のコーヒーを頂き、おしゃべりをしていると、片言のインドネシア語で会話をします。暫くすると、親戚やら子供やらも集まってきました。餃子のような おつまみを頂き、またおしゃべりをする、の繰り返しです。お婆ちゃんが子供とお話をし、子供が赤子をあやしています。家族3世代が、日陰で寛いでいるので す。
朝から晩まで働きつめの日本人とは、違った時間が流れていました。

僕らが、船の調整をしていれば、手伝おうとしてくれます。手伝えることがないとわかれば、暫く静かにみています。人の為に動くけれども、恥ずかしがり。これは、ジャワ島の人とは全く違った反応です。どこか馴染みのある感じがします。
この原因はどこからくるのでしょうか。気候、風土、習慣、海の様子もジャワ島とは、全く違います。自然の変化と共に動物も、植物も人も変っていくのです。

夕食を食べようと店を探すも、店自体がありませんでした。小さな小さなトコ、と呼ばれる店に、水とクッキー、わずかなパン。洗剤、日用雑貨が、電気もない木造の掘建小屋にあるだけです。さて、どうすか。

途方に暮れているとジャンが、「うちにおいでよ、ご飯もあるから」と誘ってくれました。本当にありがたいことです。暗闇にジャングルの濃淡が見えます。その中へ、ジャンの後にくっつくように僕らは入っていきました。
ここは、水木しげるが見たジャングルの世界だと思いました。奇怪な泣き声が聞こえ、どこからともなく、人がささやく音、虫の声、あらゆる音が主役の世界で す。目を働かすことが困難な為、普段、使わない五感が動き出していました。妖怪が見えるのは、こんな時ではないだろうか。
ジャンの家は、裸電球が一つついたコンクリート作りの家でした。薄暗い光の中で、奥さんがご飯を作っています。彼は僕らに家族の写真をみせ、私生活の話、漁の話など、いろいろな話をしてくれました。

夕食は、獲れたての魚の素揚げ、野菜のスープ、サンバルという香辛料たっぷりの辛いドレッシングです。バリ島より、さらに辛さをました食べ物に、僕ら2 人は「辛い!でもうまい!マイガッティ!!(ロンボク語でおいしい)」と連呼しながら、空腹の体にエネルギーを入れていったのです。
どれもこれも、自分達の身近な場所でとれた食べ物です。無駄には出来ません。人への感謝、食べ物への気持ちが自ずとわいていました。

世界を理解する第一歩

シーカヤックは、朝日を浴びながら、音も無く島々を縫うように進んでいきます。ロンボク島北西に浮かぶ3つの島々が左手に見えます。観光地として有名な島だけあり、船が朝早くから往来していました。島の北岸を沿うように進んでいきます。
海岸線には、椰子の木が立ち並び、南国特有の景色が続きます。砂浜は白ではなく、黒色を帯びています。潜れば、サンゴの海でない事が、砂浜の色からわかり ました。

ロンボク島には、富士山と同じ大きさの山があり、そこから沢山の川が流れています。山から土や栄養分も流れ込むので、海は想像していたより濁って いました。沖に浮かぶ離れ島は、山がありません。平坦で、サンゴが発達しています。インドネシア、ヌサトゥンガラ州の海は、このバランスが絶妙なのでしょう。海に限らず、山も含め、自然の中で生きる生物の多様性が、それを証明しているように思えました。

午後には、海側から風が吹いてきます。大陸が暖まる為です。夜には、逆の風が吹きます。この風に逆らいながら人力で進むのは骨が折れます。5時間ほど漕いで、集落の見える海岸に上陸しました。

前日、泊まったニパ村人にもらった椰子の実をカヤックから取り出します。椰子の皮を剥ぎ、中の殻だけを持って移動するのが正しい?飲み水の運び方。飲み たい時に、殻の上部に穴を空けます。コップにジュースを移すような無粋なことはしません。直接、口をつけてジュースを喉に流し込むように飲むのです。

唇にあたった殻のざらつき。ジュースと一緒に流れてくる内部の果実や異物、もろともガブガブ飲み下していきます。「うまいなぁ」熱帯の太陽の下では、こ うした声が漏れるのです。もしジュースが残ったら、穴に木を詰めて栓をします。これで蟻などの虫が入ることはありません。自然の中では、自然にあるもので 全てが完結するようになっているのです。

木陰で休んでいると村人がやってきました。カヤックで海を渡り、モヨ島まで行くということに驚きます。ここでも、コーヒーを頂き、昼飯を頂くことになりました。
旅人をもてなすことが良しとされているのでしょうか。土地の人が持つ風土なのでしょうか。出会う人は、とても親切な方ばかりです。さて、料理は…。
唐辛子とスパイスがたっぷり入ったロンボク風味の空芯菜の炒め物と、目の前の海で獲れた魚のから揚げ。

汗を噴出しながら、日本にはない甘み、辛味、苦味を堪能します。いい歳した二人の日本人ですが、お皿いっぱいのご飯をお替りをし、「マイガッティー(ロンボク語で美味しい)」を連呼し、胃袋が満たされていきました。ここでも感謝。旅は、感謝の連続です。

近くに街があることを村人に聞いたので行ってみます。水や行動食の補給が目的です。
まずは村から水田のあぜ道にでます。舗装道路ではありません。土の道です。道の脇には牛が寝ています。赤ん坊をあやしている子供がいます。母親が小さな小さなお店の番をしています。
その店の脇で、蛇のような物を串刺しにし、焼いた物が売られていました。食べてみたいような、避けたい様な気持ちです。自分の知らない食文化を、頭が理解 していても、体はすぐに反応してくれません。そのまま、通り過ぎました。今では、少し後悔しています。食べておけば良かった、と後から思うのです。

舗装道路に出れば、猛烈なスピードで車が往来しています。排気ガス、人、圧縮陳列の物資、荷台に山積みのトラック、人の活気、道端に散らばるゴミ、埃、 ナマモノの腐った臭い。幹線道路というインフラがもたらす恩恵と害を、目の当たりにした思いです。市場には、電気が引かれておらず、掘っ立ての屋台が連 なっています。たらいに入っている魚や肉、生ものにはハエがたかっていました。店番をしているおばさんが、手作りの団扇で絶えず追い払います。焼け石に 水。扇ぐ手にもハエが止まっています。こうした中で、人の活気があるのは何故なのでしょうか。

違う世界の一面に出会う事は、旅の目的の一つです。自分の価値観では、理解しにくい事。世界を理解する第一歩は、こうして生まれていくのです。


感謝の気持ち

朝早くから出発して、午後まで6時間ほどロンボク島の海岸線を漕ぐ毎日。ひと漕ぎ、ひと漕ぎ、人力以外の動力はありません。日差しの強さに耐えかね、水 を頭からかぶり、時には海に体ごと飛びこみます。熱射病にならないように注意しているのです。途中、海の上で出会う漁師は、がんばれよ、と声をかけてくれ ます。昔の人も、こうして移動していたと思えば、心強い話です。

今の僕になくて、かつての漁師にあるものはなんだろうか。人間の能力では、大きな違いは無いはずです。自然の中で、生きる知恵、生かされる知恵、そうし たものは、どこで学べばよいのでしょうか。なぜ、学びたいのか、自分でもはっきりとはわかりませんが、その中に大切なことがあるような気がしているので す。効率的に、合理的にものを考える社会とは少し違う世界です。漕ぎながら、そうしたことを考えていました。

椰子の木の下で休むと村人がやってきて、見知らぬ身なり、船で現れた言葉も通じないような男二人に、コーヒーや椰子の実を出してくれます。

これはどの場所でも、同様でした。これは、人をもてなす、という習慣が振る舞いとして浸透していることの証拠でしょう。こういうコミュニティーと、知らない人にあったら話をしてはいけない、という世界では何が違うのでしょうか。
僕達も、相手への振る舞いに失礼がないように、感謝の気持ちを伝え、元気をもらっては、また移動していきます。

こういうコミュニティーと、知らない人にあったら話をしてはいけない、という世界では何が違うのでしょうか。僕達も、相手への振る舞いに失礼がないように、感謝の気持ちを伝え、元気をもらっては、また移動していきます。

「今日は、集落でなく沖に浮かぶ島へいってみようか」。

ロンボク島も半分を過ぎて、北西部まで来ていました。島の周りは、養殖場やら川が流れ込んで、決して綺麗とはいえません。人が住んでいる海岸線は、どう しても海が濁ります。沖に出れば、綺麗な海に出られるのでは、という思いがありました。陸から1キロも離れると、たちまち海の色が変わってきます。緑が かった色が、青に変わっていくのです。船の往来もなく、海に浮かんでいるのは僕ら2人だけ。水を漕ぐ音だけが響きます。

島に近づくと、今までと様子が違っていました。海に面した場所から木が生い茂っているのです。 木の根元は蛸のように四方に伸びています。
日本では奄美大島以南の河口の汽水域、干潟などにみられるマングローブのようですが、ここには淡水がなく、干潟もなく、さらには波が直接あたっているのです。波に弱いと聞いていたマングローブが、どうして…この疑問は、日本に持ち帰ることにしました。
海は、サンゴ礁に変わっています。早速、マスクとシュノーケルをつけてドボン。今日は、村の近くでキャンプではないので、自分達の食料は、自分で調達しなければなりません。おかずになるような魚を、食べる分だけ捕獲、海に感謝します。

魚影は多くありませんでしたが、サンゴは手付かずのまま残っていました。赤、緑、青、紫、黄、どうして、このように鮮やかな色になるのでしょうか。植物 がカラフルな色の花を咲かせるのと同じことなのか。花に寄る虫が、鮮やかなように、海の魚も鮮やかになるのです。こうしたことは、人が仕組んでやったこと ではありません。昆虫や魚が、どういう過程で、今に至るのか、自然の中には不思議が一杯あります。
さて、今日のキャンプをどこにしようか。寝床を探しますが、木が海の中まで生えていてビーチなどないのです。船を木々の間に差し込んで休もうか、またロン ボク島へ戻ろうか、どうしようか決めかねているとき、畳、3畳ほどの陸地がありました。上陸するのに、これは駄目だろうと、誰もが思うような地面です。

下は、サンゴの欠片。決して良い条件ではありませんが、選択肢はないのです。上がってみると、木々の奥に、わずかなスペースがさらにありました。危険な 生き物がいないか、辺りを確認します。鳥の鳴き声が、四方から聞こえますが、危険はなさそうです。蚊よけのクリームを肌の露出しているところ全てに塗り、万事OKです。僕らは火を熾し、米を炊き、魚を食べ、また明日に備えて、泥のように眠るのでした。
疲れた体を休めることは、自然の中で生きる為に、とても大事な仕事なのです。

この海、凄い綺麗ですよ

ロンボク島を抜け、スンバワ島へ渡る途中に、小さな島が散らばっています。どの島も観光地などではなく、漁師が仕事の途中、休む為に上陸する程度の島で す。海は、コバルトブルー。海峡なので、潮通しが良いから透明度が高いのでしょう。海岸線は真っ白なビーチになっています。周辺がサンゴ礁である証拠で す。

海に潜る準備をして、カヤックから海に飛び込びます。絡み合うように枝状のサンゴが広がっていました。ルリスズメダイなど、熱帯海域にいる小魚が群れて います。中層には、大小のイカの群れ。浅いところから、深いところにかけては、巨大なテーブルサンゴが棚田のように折り重なっています。海底は、全てサン ゴで覆われていました。
光合をする為の努力は、陸上の植物も、海中の生き物も同様です。サンゴ礁は、海の多様な生物を守る森と言われていますが、これは現場で見れば一目瞭然。 サンゴの隙間という隙間に、小さな生き物が見られるからです。外洋からの波から守られ、大きな魚からの襲撃からも守ってくれる、天然の防波堤になっている のです。

見えるスンバワ島には、赤茶けた山肌が見えています。今まで、どの海岸線にもあった椰子の木が見当たりません。これは、どういうことでしょうか。ロンボクの山脈の東西をわけて、大きく気候が変わっているのでしょうか。
ロンボク島以東は、雨量が少なく乾燥している、という情報を聞いていましたが、島の東西で大きく変化するようです。思い返せば、リンジャニ山(ロンボク島の中心に位置する山脈)を境に、緑が少なくなってきた気がします。

気候が変われば、人も変わる、今まで旅を通して感じてきたことです。きっとスンバワ島には、また違った価値観の人々が生活しているのに違いありません。現場で見ないとわからないとことは沢山あります。

インドネシアは東西5,000キロメートルにも及ぶ国ですが、このスンバワ島が中間地点になっています。島の西にスンバワ族、東にビマ族が生活してお り、今では敬虔なイスラム教徒が多いですが、ヒンドゥー教や、ドンゴと呼ばれるイスラム教以前の、宗教も残っているようです。この島に生きる人々は、同じ イスラム教でも、ジャワ島の人々とは違うのでしょうか。

以前、遠征で行ったインドネシアパプア州の人々には、キリスト教の方が多くいました。ほとんど化石燃料を使った物がない地域でしたが、上半身は裸、下半 身には、木の葉を乾燥させて作った腰蓑姿、耳や鼻、上腕に動物の骨で作ったアクセサリーをつけながら、聖書を読み上げていたのが記憶に残っています。
バリ島では、ヒンドゥー教を信仰している人が多く、女性が花や葉を集め、飾りを作っては、寺院にお供え物をしていました。ジャワ島で出あったイスラムの人々は、好奇心が強く、お話が大好きな人々でした。

広大な海に広がるインドネシアという国は、多民族、他宗教の国家です。大昔から、マレー系の人々が住んでいたと言われています。王国時代には、インド 人、中国人、イスラム人、と貿易をかわし、オランダが植民地統治を行い、日本軍の侵攻があり、と様々な国や文化が交錯した歴史をもっている国なのです。

僕は、昔の人のように、ゆっくりゆっくり海を渡る一介の旅人です。その中でも、人が生きる強さや、価値観、豊かさや、問題となっていることなどが見えて くることがあります。そうしたことを理解する為にも、背景にある歴史や、文化などを、理解しなければいけません。現場で実感したことを、何につなげていけ るかは、旅をする人の課題だと思うのです。


幸せのキーワード

スンバワ島に渡って、海を漕ぎ続けています。多島海の内側に入ると、波は無く、穏やかな海になりました。小さな一人乗りのアウトリガーカヌーを操り、釣りをする人、船を引っ張りながら、素潜り漁をしている人がいます。時には、子供も乗っていました。
一本の木をくりぬいた船です。ジャワ島からバリ島、ロンボク島までの海では、エンジン付きのアウトリアガーカヌーの船ばかりでした。この島は、まだ経済的 に豊かになれない人がいるのだろうかと思う反面、こうした暮らしで良いんじゃないかな、と考える漁民がまだ残っているのかもしれません。

全て人力による、生きる為の漁とは、どういうものでしょう。
まずは、木の櫂を使い、海に出ます。その日の天候に気をくばらないといけません。自分の操船技術と力を見誤れば、死が待っています。釣りの場合、一本の 糸に、一匹の魚とのやりとりになります。素潜り漁の場合、一匹一匹、魚を探しあて海へ潜ります。探すまでの時間。肉体的な負担。見つけたからといって、毎 回、うまく突けるとは限りません。失敗と成功を繰り返し、いったいどれだけの魚が獲れるのでしょうか。
おそらく、家族ひとりひとりを食べさせる為、といった気持ちで漁をしているのだと思います。わずかにでも多く獲れれば、干物にでもして、市場で売り、子供にノートと鉛筆を買ってあげようか、お菓子屋やジュースでも買ってあげようか、と考えているでしょう。
偶然、大漁に恵まれても小さな船に魚を乗せられる以上は獲れません。身の丈、とはこのことかもしれません。自然と折り合いをつけながら生きる形、手にとって見える幸せの形があるように見えました。

村に上陸して、散策してみます。
まず舗装道路はありません。土を固めた道です。バイクが走っていますが、車は入れません。魚の生臭い臭いがします。ニワトリが駆け回っています。ヤギが 道草を食べています。子供が元気に裸足で遊んでいます。バナナの食べカスやゴミも転がっています。排泄物は、そのまま海へ。家からは、音楽が流れていま す。電線が洗濯物を干しているロープの、すぐ上に渡してあります。木の電柱には、こんがらがった釣り糸のように、混線していました。この電柱に、犬が小便 をひっかけて歩いてきます。その横の家には、シャンプーから、お菓子、電池、サンダル、インドネシアでトコと呼ばれる小さな雑貨屋に、店番の奥様が赤ん坊 を抱いたまま、まどろんでいます。
ここでは、人の生活する空間と、動物や植物、昆虫、生き物の領域に、境目がはっきりありません。あらゆる事が渾然としています。ゴキブリで大騒ぎする日本人は、耐えられないかと思います。しかし、なぜここの大人の顔に笑顔があり、子供は嬉々として遊んでいるのでしょうか。わたしが旅をしてきた東南アジア全 般に感じること、といえば大げさかもしれませんが、この日本との差の原因は何であろうかと、いつも思わされます。

自然と共に生きる場所では、どんな人でも必死に生きることになります。安全は確保されていませんし、食料を貯蔵することすらままならないのです。経済的に貧しい場所で、人が生き生きとしているのは、そういうことが関係しているのかもしれません。

わたしの両親、祖母は、わたしを不自由無く育ててくれました。特別、裕福な家庭ではありませんでしたが、子供の時に、何か苦労した記憶はありません。食べ物も好きな物を、好きなだけ食べていたと思います。感謝の気持ちはあれど、そうした与えられた満足、安全への確かな記憶があまりありません。自分で必死に何かを探していた事、自分で食料を獲った事、誰かを必死に助けた事、そうしたことは、充実した時間として心に残っています。
この必死さ、一生懸命、ということが、人生の幸せのキーワードのような気がしてなりません。夢や目標を持ちましょう、という言葉には、そうした意味が隠さ れているのだと思います。逆に言えば、「楽して、儲かる」「簡単に誰もが成功する」では、充実感は得られないのです。旅をして、違う世界をみて、感じることが沢山あります。

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アマンワナ

「アマンワナ、どこにあるのだろ」。
僕らは、スンバワ島からモヨ島へ渡っていました。ゴールで目指していたホテルが、島の南西海岸沿いにあるのは、わかっています。しかし、見えるのはうっそうとしたジャングルだけでした。
海岸線に椰子が見える場所がいくつかありました。この木が生えているのは、人が居る場所です。熱帯地域で住む人々は、必ずと言ってよいほど椰子の木を植え ます。観賞用として、庭に植えられることもありますが、本来の役割は食料、飲料として、また燃料としても、人の暮らしに欠かせない植物なのです。ホテルで あれば、何かしら建物が見えると思っていたのですが、見当たりません。

自然の中に、溶け込んだ究極のホテル」。

マゼランリゾーツの朽木社長からは、そう聞いていました。ともかく近くに行ってみよう。
相棒の藤井さんと僕は、ゆっくり海を漕いでいました。もう遭難する心配はないのです。多少、風がありましたが、海は青く、透き通っています。誰もがイメージする南国の海でした。
どこからともなくエンジン音が聞こえてきます。あたりを見回すと、西の空からセスナのような飛行機が低空飛行で降りてきました。専用機があるのは、聞いていました。間違いありません、あれはホテルの飛行機です。
海に降り立ったセスナは水上を旋回しながら、ビーチへと移動していきます。人の影が見えました。スタッフの方が出迎えてくれました。

「やりましたね、あそこがゴールですよ」。

ここに辿り着くまで、2週間、僕らは300キロメートル。ガソリンは使わず、自分達の頭と体を使って海を渡ってきたのです。使った電気は、ヘッドランプ の乾電池だけです。島の人々の暮らしも、家の中に裸電球が一つぶらさがるような生活でした。人の暮らしの原点とはどういうものでしょうか。電気とはなんだ ろうかと、旅に出ると考えさせられます。

夜には、夜の闇がありました。道には街灯もありません。車が走る音は、2週間の間、ほとんど聞きませんでした。椰子の葉が揺れる音や、鳥の鳴き声、海や 生き物が躍動する音が鮮明に聞こえてきます。音楽とは、こういう自然の音の調和の中から生まれてきたのでしょうか。昼間には、沢山の子供の姿がありまし た。そして、手を伸ばせば、たわわになった果物を自分で取れるような生活です。そこで出会った人々は、自然と共に生きていました。

そして、アマンワナ。
文明が発達し、そこで獲得した英知を凝縮したようなホテルが、自然や土地の文化との調和の中にあることが、とても興味深いと思えました。
エジプトのピラミッド、ギリシャの大神殿、中国の城、どの時代にも権力が集中し、その象徴となるよう人工物が作られますが、人は、地球という自然と生きる 事から、いまだ誰も抜けられないのです。人が作り上げた文明の世界にだけ居ることが、自然そのものである人間にとっては心地よいものではないのかもしれま せん。
人が人をもてなすこと。人に喜んでもらうこと。アマンワナの対応には、そうしたポリシーが感じられました。多くのリピータがいるのもうなずけます。
これは本来、人が人と繋がる為に、必要な行いだったのかもしれません。なぜなら、僕が出会った海の民は、必ずと言っていいほど、優しく歓待してくれるの です。ここに金銭のやりとりはありません。外来の人を迎え入れることが、コミュニティーにとって、マイナスに働くことより、プラスになることが多いこと を、皆、本能的に理解しているのでしょうか。大昔から続く人との出会いとコミュニケーション。本来、人が行ってきた行為のような気がします。

そして最後にサプライズ、朽木社長が日本からゴール地点のアマンワナに来てくれました。
ホテルのスタッフも交えて、美味しい食事に、ワインを飲みながら、冒険や旅について、地域の多様性を大切にする哲学について、夜、遅くまで続いたのです。

最後に待っていたのは最高の時間でした。


今回も遠征に協力して下さった皆様、応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。この場を借りて、お礼申し上げます。

八幡暁

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