航海記録


|インドネシア ジャワ島~バリ島1000km 2009年|

今回の舞台は、海洋国家インドネシア。
雨季の海を1ヶ月で1,000kmの予定でした。
夫婦2人で挑んだ初めての挑戦。
ジャワ島ジャカルタからバリ島を目指した記録です。

フィリピンブスアンガ

【活動概要】 遠征遂行者:八幡暁/雪絵 
活動地域 :ジャカルタ~バリ(インドネシア)
活動期間 :2009年1月22日 ~ 2月20日まで
航行方法 :フェザークラフト K-2



 


Great Seaman Project ジャワ島~バリ島

深い、そして不快な、泥の海に初日から阻まれていた。カヤックでの上陸ができない。カヤックから泥に降り立てれば、足が腿まで埋まってしまう。踏み込めば、さらに埋まっていく。カヤックにつかまれなければ、もうどこにも動けない状態になってしまう。陸は、すぐそこに見えているのに。ソリのように泥の上を滑らせたい。パドルを泥に差し込むがうまく進まない。このまま座礁させて休もうか……、先を見ても泥は切れるところがない。夜間航行になれば、翌朝まで漕ぐことになるだろう。どうする。初めて夫婦ふたりで挑んだ雨季のインドネシア・ジャワ島横断は、スタートから厳しい選択を余儀なくされたのである。

ジャワ島~バリ島 夫婦で1000㎞

今回は、ジャワ島からバリ島まで1000kmという距離を1ヶ月で漕ぐ予定だ。 世界第4位、2億3000万人という人が生活するインドネシアは、 東西5500kmにも広がる国土を有する。その海岸線の長さは世界一で、 島の数は1万8000を越えるという海洋国家だ。 政府でさえ正確な島の数は把握していない。 天然資源が豊富で、食料自給率が高い。 言語、民族の数は300を越えると言われる多民族国家でもある。

大昔、ここジャワ島は、スンダランドと呼ばれる大陸の一部であった。 現在より海面が100m低い時代のこと。 マレー半島、ボルネオ島、ジャワ島、フィリピン南西部は、ひとつの陸としてつながっていた。 日本人の祖先の一部は、ここからやってきたと言われている。 ジャワ島から北に位置する日本だけでなく、東へ東へと海を渡った彼らは、 サフルランド(現在のニューギニア、オーストラリアがひとつの大陸だった時代の呼称)、 ミクロネシア、メラネシア、ポリネシア、最後にはニュージーランドまで広がったという。 紀元前7~2万年あたりのことである。 人類の拡散を知るうえで、とても重要な場所であったことは間違いない。 僕らの祖先が生きていた風景は、どんなものだったのだろうか。

インドネシアの乾季は、安定した海になることは知っていた。 ならば、一度、荒れるといわれている雨季を見ておきたい。 今回のコースは、ジャワ島北岸を進むコースタルカヤッキングである。 地図を見れば、ずっと島に沿って道路がある。村や町も多い。 最悪の事態を回避出来るだろう。 島渡りの場合は考えるべきリスク(人知で回避出来る困難)や 危険(人知の及ばない困難)が増大するため、無理ができない。 コースタルカヤッキングは無理ができるという意味ではないが、 今回のチャレンジは、インドネシアの海を知るのには、 ちょうど良い海域ではないだろうかと考えていた。

2008年までに、難しいと考えていた海域を渡り終え、 その後、チームで海を渡る挑戦もしてきた。 失敗もあったし、成功もあった。充実した経験ができたと思う。 しかし、何かが足りない。何だろうか? 昔の人は、女、子どもを連れて海を渡っていたはずである。 どんな航海だったのだろうか。 男同士で海を渡る場合にできることが、難しくなることもあるだろう。 逆に、男同士では解決できないことも、解決できる場面があるだろう。 どんな問題が出てくるのか。そういうことも知りたい。 人がどんな思いで海と自然と向き合っていたのか。 僕は、’07年に結婚した。 しかし式を挙げるわけでもなく、新婚旅行に連れていくでもなく、自分の遠征ばかりしていた。 そんな僕の姿を見て嫁は「自分もいつか一緒に海に行きたい」と言うようになっていた。 インドネシアの荒れる雨季は、難しいけれど最悪の事態に陥る可能性は少ない。 ここなら、一緒に行けるかもしれない。 「キツイ遠征に連れて行くことが、ハネムーン旅行なの?」とツッコミが聞こえてくるが、 これは僕が考えられる最高のプレゼントだった。

観光で見られる世界は、お金さえ出せば見ることができるし、 年老いてからでも行くことができる。今の時代、昔から続いてきた自然や 人の関わる姿を見るには、まず自然と向き合うリスクも受け止めなくてはいけない。 それは、人が生きるうえで当然だったこと。 しかし、その意識は希薄だ。 さらに文明に守られた生活をしている僕らは、 自然のなかで生きる知恵や体力も減退している。 カヤックは、そうしたことを取り戻す道具のひとつでもあるのだが、それなりの努力も必要だ。 見知らぬ海を渡ることは、誰もが行ける世界ではない。当然、雪絵も気楽には行けない。 一所懸命やることがたくさんあるのだ。 緊急時のインドネシア語を覚え、カヤックの技術を学び、体力をつける。 努力をしてこそ初めて得られる充実した旅や時間を経験してもらいたかったのである。 遠征に向かう場合、その土地の情報を収集する。 雨季では、毎日、雨が降るはずだ。そして北西の風が吹いている。 僕らが航行する北岸は浅い海。波がブレイクしてスープ状になっているだろう。 人からの情報では波は5mにも達するという。出発前には、大型の客船が波をかぶって沈没。 死者が多数出る事故が起きていた。 本当に、5mの波の海であれば、停滞する日が多くなりそうだ。 そうでなくともサーフの技術が必須である。 海は茶色。バリ島まで潜る事は出来ないだろう。

村から村へと移動することになる今回の遠征は、未開の地ではない。ジャワ島だけで1億2400万人住んでいる。島としては、世界第一位の人口だ。こうしたフィールドでは、コミュニケーションの力も必要になる。自分たちは怪しい者ではないことを伝え、現地の情報を聞き、助けを求めることもあるだろう。カヤックの技術、肉体的な強さは当然であるが、カタコトでもインドネシア語の習得が同様に必要だ。

カヤックは、A&F社から貸していただいたフェザークラフトのK-2を使用することにした。フネの剛性は、過去の遠征から知ることができる。ファルトで巡航速度を保ちながら、荷物を搭載できる素晴らしいフネだ。静かな海で走ることはわかっている。自分にとって心配があるとすれば、荒れた海での練習ができなかったことだ。追い風、追い波の中で、どのような動きをするのかがポイントになると考えていた。通常、自分の乗るフネの動きを、自分の向かうフィールドに合わせて確認して初めて使うことができる。
なぜ怠ったかと自分に問えば、沿岸の航行、ということを甘く見ていいたのかもしれない。実際、現場で危険な状況になることを、今は知らない。

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夕刻、水平線に光が落ちる頃、カヤックは泥に掴まっていた。 スタートして1日目にして夜間航行になるとは。。。 あまり考えたくないシナリオが重い現実となって目の前にあった。 「雪、大丈夫か」 「まだ大丈夫」 「急に寒くなるからパドリングジャケットを着ろよ」 雪絵にとっては2度目の夜間航行である。事前に練習をしておくべき事も、 身内に甘えて準備をやらない、ということがこの遠征で起きていた。 現場ではどうにもならない。やるしかないのだ。 彼女にとって未知の世界の恐怖が待っている。

1人だと怖い事も、2人でなら切り抜けられることがある筈だ。 大昔から、人は、子供や女性を連れて旅をしていたのだから。 基本的に楽観主義である僕はそう考えていた。 しかし、プラスの面があるなら裏にはマイナスの面が、切れない影のように必ずついてくる。 ストレスがかかり、本性が剥き出しでぶつかり合った時、 どうにもならないことになるのではないか。 出発前に、周囲の友人からそのような事を聞かされていた。 いきなり夫婦の危機に向かうのだろうか。

「肩の後ろが痛くなってきた」 「休んでいいぞ」 出発して10時間過ぎていた。パドリングに痛みを感じ始めたようだ。 女性でこれだけ漕げればたいしたものだと思う。 ただ自然の中では、誰かと比較して凄いかどうか、という問いは意味がない。 自分が、どのように向き合い、リスクを負えるかということだけが問題になる。 今は、現場で生き延びる力が弱くなってきている、という現実があるだけだ。 休んでは、また漕ぐという時間が過ぎていった。

強い夜風が体を冷やすというのに、雨が降ってきた。 大きな積乱雲ではないけれど、ダウンバーストも連れてくる。漕いでいても肌寒い。 漕いでは休んでいる雪絵は、もっと冷えている筈だ。 波も高くなり、斜め後ろからカヤックを持ち上げる。時には胸までかぶる様な波。 パドジャケの中は当然、びしょ濡れだ。風を防ぐ為のジャケットとしては効果を発揮している。 しかし、肌着が濡れている為、体温は奪われていく。 着替えてもまた直ぐに同じ事になるような海況だ。

「寒かったら、漕げよ」 「そうしたいんだけど、肩が痛くて」 肩に痛みや疲れを感じるのは、一般的に引き手を使う漕ぎ方の人によく見られる。 悪天候、牽引などの負荷がかかる時、顕著に事が起きやすい。 しかし、雪絵の漕ぎは悪くない。長時間に絶えられる漕ぎ方をしていた。

良いパドリングが出来ていても10時間、20時間、30時間と時間を経る毎に、 差はあれど肩の痛みは出てくるものだ。自分にも経験があった。 過去、最長の連続パドリングの後、 陸に上がってからは、かつてない痛みを感じたのを覚えている。 (自分の腕を痛みで持ち上げられないくらい!)無理をすれば、後日にも影響をしてしまう。 「風裏になるようなところを探して休もう。消耗しすぎるといけない」

マングローブと泥が邪魔をして上陸不可能な場所が続いている。 闇夜のパドリングが止まらない。 何とか風の直撃を受けない場所を早く探さないとと気が急いた。 極地でビバークを求められる登山を思えば何て事はない、と言い聞かせる。 凍傷になるわけではない。低体温症になることもないのだ。 外洋に流されてもいないのだから、焦って探す必要はない。

周囲の様子がよく見えないが、風上に木々が見えている場所を見つける。 波は入ってこない。マングローブらしき木にカヤックのロープを縛り付けた。 パドルを置いて暫し休憩。自分の体にもすかさず寒さがやっくる。 少しすると、蚊が襲撃してきた。顔のまわりで聞こえる羽音は、1匹や2匹ではない。 手で払ってみたところで、次から次へと刺されていく。ここでは駄目だ。 安住地が見つからない民のように、また海へ漕ぎ出すしかなかった。 どこか良い場所はないだろうか。

ようやく見つけた止まり木。 僕らは、唇を紫色にしている翼の折れかかった鳥といった感じであったろう。 カヤックを木に縛り付ける。時間は0時をまわっていた。夜明けまでは、まだ時間がある。 少しでも寝られればよいのだが…。 体を出来るだけコックピットの中に入れたいが、187cmの体はこういうときに不自由だ。 フェザークラフトのシーソックを外し、荷物をどけて、なんとか体を船体にねじ込んでいく。 リジットの船では隔壁があるためこうはいかない。ファルトは海上ビバークによいかもしれない。

「ライフジャケットに腕を入れて、両腕を抱えるように肩に手を回すと良いぞ」
「寒いねぇ」
「寒いよなぁ」
こんな状況でも、会話が出来る事。1人の旅ではありえない。小さな幸せ。 会話の内容は、他愛も無い事だ。うとうとしては、寒さでと窮屈さで目が覚め、また声をかける。 時計を見ては、まだ30分しか過ぎてないのかと思うような時間が過ぎていった。

「少し明るくなってきたな、ちょっとは寝られたか」
「ほとんど寝られなかった、鼻水が酷いかも」
「風邪ひいたんじゃないか。薬出すか」
「まだ大丈夫、ちゃんと上陸してからで」

スタートして初日の朝は、海の上で向かえた。 空が群青から、水色に変わる頃、自分達の居る様子がはじめてわかる。 マングローブの入り江付近。濁った海が眼下に広がっている。集落は見えない。 人工物は、自分達のカヤックだけだ。景色に異物が混じっているような不思議な光景。 まさに弱い生き物が、ここで一晩耐えていたという状態であった。

気を入れなおして再出発。 雪絵のパドリングは、朝から重い。本当に熱があるのかもしれない。 5時に漕ぎ出して、10時頃、はじめて上陸して休憩が出来た。 狭いが、泥ではなく砂の陸だ。カブトガニの死骸がごろごろと転がっている。 過去に見たことのない浜の様子だ。 何万年も姿、形を変えていない生きた化石が、何故、こんなに多量にいるのだろうか。 面白い!写真を撮ろう!という気力も記憶も無い。 雪絵と僕は、疲労感からドライフルーツを胃に流し込むと、 手足を大きく伸ばし、泥に混じるように眠った。

30分ほどたっただろうか。今度は、暑さで目が覚めた。 雨季で空全体は曇っているものの、ここは熱帯直下。高温、高湿度である。 パドジャケを脱いで干す。雪絵は動かない。もう少し休ませよう。僕は、もう一度エネルギーを入れなおそうと、パワーバーを頬張る。隣には、カブトガニ。 裏返してみると、映画「エイリアン」に出てくる、エイリアンの幼生時代の姿、そのものだ。 一気に食欲が削がれる。しかし、究極の形なのだろうという畏敬の念もどこかに感じた。 家に帰って少し調べると、雄の足は鈎状になっていて、 繁殖期には、メスを上から捕まえるらしい。 間違えてウミガメすらを羽交い絞めにすることもあり、その捕縛力は極めて強いとあった。 顔に飛びつかれたら恐ろしい事になるとリドリースコットは思ったに違いない。

雪絵はパドジャケを着たまま、起きるなり「寒い」とだけ言った。 熱があるのは間違いなさそうだ。「キャンプ出来る場所を探そう」

雨季のインドネシアは10時を過ぎる頃には 西風が強まってくるのが典型的なサイクルのようだ。 海には白波が立ち始めている。 海岸線は、泥の遠浅海なので、サーフが折り重なるように崩れてくる。

「急ごう」

漕ぎ出すと、雪絵は頑張っている。 酷くはないのかもしれない、いや、そうであって欲しいという希望的観測。 もうちょっと頑張れよ、あと少しだから。

14時、海岸線に掘建て小屋が1つだけ見えた。サーフをなんとか捌いて上陸する。 その頃、テントが飛ばされるくらいの強風になっていた。「あの小屋の影でテントを立てよう、荷物のことはいいから、先に着替えて、熱を測って」 まずは、テントを建てる。半壊している小屋の中に張ることにした。外に張るよりましだ。海に戻ってハッチの荷物を下ろす。カヤックを引き上げる。荷物を小屋に持っていく。何度が往復して、一通りの段取りは終わった。

「どうだ、何度だ?」 「38度7分だって」 「やばいな。服着て寝てて、今、飯作るから」

冷静に答えようと思っている時点で、僕は冷静ではなかった。出発して2日目。これからどうすれば良いのだ。飯を作りながら、最悪の事態を考えておく。熱が下がらなければ、ここで旅は終了する。病院を探さなければならない。村は近くにある。まずは、飯を食べて、薬を飲ませる。あとは、休んで様子を見るしかない。

翌日、熱は下がらなかった。38度2分。汗を大量にかいている。顔色は悪くないし、食欲もある。話す言葉もしっかりしている。 しかし、出発出来る状態ではなかった。出発当日の昼に食べた屋台はどうだったか。感染症も考えられる。発症時間が短いためチフスではないだろう。アメーバ赤痢でもない、便に異常は見られない。コレラのような下痢もない。A型肝炎にしても様子が違う。もう一日、様子を見よう。

この旅は、一日平均40㎞を1ヶ月続けるという過酷なスケジュールを予定していた。 地図を眺め、改めてスケジュールを考える。 1000㎞漕ぎ抜ける為に必要な段取りと、出来なかった場合はどこで打ち切られるのか。 今日も昼前からは、大風が吹いている。波は大きい。 1日漕げないとなると、どこかでその距離をカバーしなくてはならない。 旅の見込みが甘かったか…。 イメージをし直す。雪絵を連れて、大波の中の夜間航行。 今の僕では技術的に届いていない。 もし、明日も出られなければ、1000kmは諦めようと思った。 そこに拘るのは危険だ。

翌朝、丸1日休んでいた雪絵は、奇跡的な回復をする。体温も平熱に戻った。 この日も、熱が下がらなければ、村に出て医者にかかる必要もあるかと考えていた。 本人は案外ケロッとしている。 「何か大丈夫かも」 「じゃぁ、出てみるか。この先に岬がある。あれを風が吹く前に回らないとやばいからな」 手早く片付けをして、海に出た。心配していた病後のだるさなど微塵も感じさせない。 むしろ調子が良いように見えた。 カフェラテ色の海は延々と水平線まで延びている。風は静かだ。

途中、海に巨大な建造物が何十機も立っていた。 一辺が10メートル四方以上ある竹で組んだ足場、といった感じ。 四角の中には、黒いネットが海面より上に架けられていた。 真ん中には、ライトを取り付けるような仕組みになっている。 そう、これは棒受け網の巨大版。夜間に行う漁の仕掛けなのだろう。夜、網を下げて集魚灯を点す。魚が集まったところで網を上に持ち上げるというだけの簡単な仕組み。昔は松明の光が、この泥の海で揺らいでいたのだろう。

午前10時頃から吹きだした風は、次第に強くなっていく。数キロ先の岬を指差した。「最後のカーブ、あそこを回れば静かになる筈だ」
「沖、まずいんじゃない」 確かに波が立ち上がってきていた。吹きだした風は、収まる事を知らない。沖のうねりが、波になって沿岸まで次々と打ち寄せ始めている。沖では背丈の倍もある海の凹凸が、弧を描いて落ちていた。沿岸は、そこまで大きくないものの波で真っ白だ。風は左斜め後ろから秒速10m。外に出るか、座礁覚悟の浅瀬サーフゾーンを行くかを決めないといけない。どちらの道を選ぶのか。

分析。

沿岸の波は小さいと言っても頭を越えるくらいの波が混じっている。ブローチングを繰り返せば、肉体的にも疲労し、スピードは上がらず、水がカヤック本体に少しづつ入ってくるのは目に見えている。海況は、スプレースカートを外し、パドルを離して、排水を何度も出来る状況でない。しかし、陸から近いというメリットがある。地面は泥とはいえ、死ぬことはない。

外を回れば、あと2時間で岬を回れる。外洋の波が大きくガマ口を開けるように崩れる様子を確認する。うねりの崩れる縦サイズが大きくとも、横サイズは小さい。これなら逃げ方がある。ドカンドカンと爆発するタイミングを外す航行法だ。カヤックを左右に走らせ、前後のスピードを調節して波を交わしていくのである。しかし、このうねりが、横に長く逃げ道が無いような状況で崩れてきたら危険だ。波のパワーの逃げ道が無い。それを避ける為に沖へ沖へ逃げる事になる。逃げる程に、うねりは大きくなり、陸から離れ、大回りになるというリスクもある。難しい判断だ。今の段階で、沖の波は、カヤックをうまく動かせば逃げられる。今までもこうした海は、1人で漕いでいたんだ。

「沖に出る」 「あの波、無理だよ」 「まだ大丈夫だ、いける」 雪絵の心は萎縮している。彼女が見る海としては、今までで一番最悪の海だったのだと思う。ミルクコーヒーがぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような海が、恐怖心を大きくさせていたのだろう。 「大丈夫、踏ん張りどころ!」 いくつか波をかわし、いくつか波をかぶりながらも、進んでく。海は酷くなる一方だ。「あと少しだ、集中、集中しろ!」 「ちょっと怖すぎる、怖すぎて心臓が痛い。。。」 「大丈夫だから漕げ、しっかり水を掴め!」 途中から雪絵の声が、聞こえなくなっていた。限界に近い状況。岬が近づくにつれて風と波のサイズが上がる。沖へ逃げて、横一線にブレイクする大波をかわす。あれには当たりたくない。

「沖から凄いの来たよ」「やばいな」それしか言えなかった。横に長く、うねりも大きな波が沖合いから盛り上がってくるのが見えた。これは避けられない…数秒後に当たってしまう。「行くぞ!」げぼげぼぉぉぉぉおぉぉぉぉぉぉぉ…思い切りパドルを波に差し込むだけでなく、体ごと差し込むように波の壁にぶつけていった。一瞬、水中で止まったようになる。そして跳ね返されるように「沈」そして「脱」。波のパワーに負けてカヤックをコントロールしきれなかったのである。 「大丈夫か!パドル持ってるか!」 「大丈夫」 「荷物は散ってないか」 周囲を確認する。と、またそこに大波。水中で巻かれる。カヤックをおこして再乗艇、すぐに波。振り落とされる。 「おぃ、カヤックを縦にしろ!俺が波側を持つ。横向きにするな、カヤックの下に入るな、危ないぞ」 波に持ち上げられたカヤックが上から降ってくる。再乗艇と排水が難しいかと思いはじめていた矢先、ハッチから荷物が飛び出し、見え隠れしているのだ。何故???そしてすぐに、カヤックの前ハッチが開いているのに気付く。この船の沈み方は尋常じゃない。水没し始めていた。一瞬、思考が止まってしまった。これはどうすれば良いのだ。

冷静に考えろ。2人で泳いで陸にあがるだけなら出来る筈だ。命は守れる。でも沈んだカヤックは引き上げられない。パスポートと金の入ったバックだけでも取り出さないと。冷静に考えようとするが、頭が動かない。次から次へと、頭の上に水が落下し、その度に海中でもまれてしまう。かぶっていた帽子とサングラスは、とっくにどこかへ消えていた。縛っていた荷物が、浮いている。止めていた紐が切れたのか。 「とってくる」 「大丈夫!?危ないよ」 「雪、カヤックから手を離すなよ」 泳ぎ始めて、また大波。ドライバッグは波乗りするように、一気に離れてしまった。もう取り戻せない。カヤックは、すぐに全水没した状態になっていた。海面に何も浮いていない。水中で、自分の腕がカヤックを持っているだけだ。やばい、沈む。PFDを縛り付けて本体を浮かせてみようか。波に翻弄されながら思案する。あらゆることが、コントロール不能。

もしかして本体は沈んでいってないかもしれない。水面下で止っているのかもしれないのではないか。波に転がされながら、手は今でもカヤックのグラブロープを握れているのだ。ドライバッグの浮力が、効いているのではないか。波が通り過ぎた後、水中で手を離してみる。沈んでいない!まだいける。とりあえず、とりあえず、落ち着こう。今、何をしなくてはいけないのか。このカヤックを陸に運ぶにはどうしたらよいのか。人間が引っ張れる重さではない。タンデムのカヤックに水が満載なのだ。そしてこの波だ。 「パドル、カヤックにしばって、手を空けろ」 雪絵は、必死にカヤックのグラブロープを持っている。もう片手にパドルを持っているため、波をくらう度に腕があらぬ方向へ引っ張られていた。このままでは、グラブロープから手が離れるのも時間の問題だ。肩が外れる事もある。僕は、パドルをもらい、カヤックの本体にきつく縛りながら考えた。この強い波の力を利用するしかない。 「波の力でカヤックを押し出すしかない。一緒に陸に向って泳ぐぞ」 風は、岬に向って吹いている。波も岬にに向って押し寄せている事を思えば、時間がかかっても必ず着く筈だ。

暫く、波に揉まれながら泳いだ。 「全然陸に近づいてないんじゃない、もう駄目だったらどうする」 「大丈夫だ、近づいてるから。ともかく岸に向けて泳げ、カヤック離すなよ」 雪絵は、弱気になっていた。そう言ったものの、自分の手からカヤックのグラブロープが何度か離してしまっていた。波のパワーが強すぎて、カヤックの重さを握る手が耐えられないのだ。指がちぎれそうだ。しかし、それはカヤックが動いている証拠でもあった。 頭からかぶる波の回数が増えてきた。その分、パワーは落ちてきている。浅瀬に寄ってきているのだ。僕は確信した。 「もうちょいだ、岸の景色も近づいてるぞ」

荒れる泥海を1時間以上、転がされていた。これが、外洋で島を渡るような場合であったら大変な事になっていただろう。排水が出来ない海で、カヤックをどうやって復元出来るのか。僕も、雪絵も水没の怖さを肌で感じていた。同時に、泳げる事の大切さも体で感じていた。波の力を利用して、沈んだカヤックを押し出していく方法が成功して助かった。あの時、船が沈んでいたらどうしていただろか。PFDをカヤックに括りつけても浮力が足りなかったらどうしていただろうか。僕らが、泳ぎが得意でなかったら…。足の裏に、泥の大地が触れたとき、はじめて自分達の状況を振り返ることが出来たのである。

本来、フェザークラフトにはスポンソンが装備されている。船体布の両サイドに細長い浮き袋が入っているのだ。これを膨らませることで浮力を作り出し、本体の剛性を維持し、安定感を生み出すように出来ている。このスポンソンに空気を入れていれば、沈む事はない。では何故、沈んでしまったのか。スポンソンの空気を入れていなかったからだ。忘れていたわけではない。風や波がないときは、空気を入れていた。しかし、一端荒れてくるとカヤックが思うように動いてくれなくなったのである。浮きすぎた船体が、風と波に煽られるのかもしれないと僕は考えた。荒れた海では、すばやくカヤックを動かす必要がある。そこでスポンソンから空気を抜いてみたのだ。動きは確かに軽くなった。ラダーの効きも、良くなった。それらを考慮して、空気は事前に抜いて航行していたのである。

空気を抜くこと自体がありえない、と考える人が多いだろう。カヤックの強度にも問題が出る事もマイナスだと。カヤックが沈まない事は、何よりも優先されるべきだと。今ではそうだと思う。何故、あの時の自分はそうした判断ミスをしたのかを考えなくてはいけない。ずっとリジット艇で旅をしてきた事が関係していると思う。リジットの感覚で船を動かしたい、リジット艇の感覚で海と自分の関係を図ってしまっていた事が間違いだった。そして、K-2で荒れた海を練習の段階で漕いでいなかったこと、この2つ目のミスは致命的だったのではないかと思う。

そして水没の直接の原因になったハッチはどう考えるのか。何故、フタが空いたのか。まだ原因ははっきりしない。折りたたみのカヤックは、船体に隔壁がない為、水が入れば船体全体に水が入ってしまう。そこで、防止加工したコックピット用の靴下(シーソック)に人がすっぽり入るようになっている。それが、隔壁替わりになる仕組みになっているのだ。僕らが大波をもらった際、スプレースカートが外れ、自分のシーソックが、一気に満水になったのは間違いない。最大に膨らんだシーソックは、船体布内の空気を押し上げる。空気の逃げ場はない。その圧力が、ロールアップ式のハッチの開閉部分に集中して、開いてしまったのではないか。これは一つの推察に過ぎないが。。。だとすれば、これも、未然に防げたミスということになる。シーソックをカヤック本体に装着する場合、シーソックを最大に広げた状態にしてカバーをする事が、使い方の基本だからだ。しかし、自分は、あまり気にとめていなかった。シーソックが足にまとわりつくのを嫌がる人がやることだろう、くらいにしか考えていなかったからだ。もしシーソックを広げて装着していれば、水が満水になっても、船体内の空気圧があがることもなく、ハッチが開かなかったかもしれない。空気圧のリスクなどは、微塵も考えていなかった事はミスだった。

僕がフェザークラフトを理解していれば、水没ということは防げたかもしれない。折りたたみのカヤックならではのアクシデントを理解することが、パフォーマンスを最大にする近道だ。やるべき事を怠れば、ほころびから水が浸水するように、気づかぬうちに危険が入り込んでくる。ファルト艇とリジット艇を同じ土俵で比較するものではない。得意とするフィールド、能力が違うことを知る必要があった。

通常、大きな波が崩れる海に狙って出る事はない(練習ではあるが)しかし、遭難する時は、予期せぬ悪天候に出会って起こるものだ。大抵は後になって、予期できた事だった、とか、準備不足だった、と後悔する。今回は、ジャカルタを発って4日目、出発早々、様々な準備不足を露呈した。生きて戻れたのは、ラッキーだったというしかない。あのまま遭難すれば、救助など来る世界ではない。死ぬ事だって十分考えられた。ハッチが開く可能性がある、水没の可能性がある、とわかった事のメリットは、今後、考えるべきケーススタディが一つ増えたという事ではない。どういうことだったか。 「なまぬるい街で育った頭の悪いお前が、全く想定しない、予想もしない事は、簡単に起こるものだ。海に出るならば、もっと真剣に頭を使って、自分の命を守ることくらい事前に準備をしとけ!女、子供を連れて行くなど百年早いわ」

海から、そうした声が聞こえた。その通りだと思った。

(過去にカヌーライフに連載)

夫婦ともども、無事に戻ってくることが出来ました。
応援してくださった皆様、本当に、ありがとうございました。
この場をかりて、お礼申し上げます。

八幡 暁

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